住職の法話

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住職の法話一覧

2017.03.01
こだわらない、とらわれない心

 子供達に人気のあった良寛さんの生活が大変清らかで、大層貧しかったことはご存知でしょう。

 何と一つの鍋で顔を洗い、外から帰ってくるとその鍋で足を洗い、そしてその鍋でお粥を炊いて食べていたというのです。何でも一つの鍋で済ましてしまったわけです。現代人が聞いたら「何と汚い、不潔な」と思うことでしょう。

 これほど貧しい良寛さんの住まいに、こともあろうに泥棒が入って、布団などを盗んだというのですから、さぞ良寛さんもびっくりされたことと思いましたら、良寛さんは全くこだわっていないのです。盗まれたことにとらわれていないのです。良寛さんの歌がそれを示しています。

『盗人にとり残されし窓の月』

 「みんな盗人が持って行ってしまったわい、と窓を開けてみたら、まん丸の美しい月が窓枠の中にポッカリとあった。あれっ、盗人めお月様を盗り忘れていったぞ」……無心なのです。こだわらない、とらわれない、私たち現代人が最も忘れている心です。安養寺も以前賽銭泥棒に入られたことがありましたが、なかなか良寛さんのようには達観できません。

 かつてアメリカ大統領主催の晩餐会に日本のある有名な禅僧が招かれました。そのお坊さんがスープを飲むとき、両手で皿を持って口につけるなり、ズルズルと音を立てて一息で飲んでしまわれたのです。そのとき、別に周囲をうかがうのでもなく、オドオドするのでもなく、実に堂々と飲まれて「ああ、おいしかった」と満足を顔いっぱいに表されたそうです。この禅僧のこだわらない、とらわれない態度に、同席のアメリカ人の多くが深く感動して、同じように皿に口を付けてズルズルと飲んでみたら、その方がずっとおいしく感じたというのです。

 このお坊さんも、マナーだ、エチケットだという前に、無心なのですね。こだわらない、とらわれない心……取り戻したいものです。


2017.02.02
涅槃會

 今から二千五百年ほど前の陰暦二月十五日、北インドのクシナガラの地で、仏教の開祖お釈迦様が入滅されました。享年八十歳。この日を仏教徒の私たちは「涅槃會(ねはんえ)と呼び、お釈迦様を偲ぶ日としています。

 ご自分の死期を悟られたお釈迦様は、侍者(お付きの弟子)の阿難に「阿難よ、私はここで死を迎えよう」と仰せになりました。クシナガラの郊外の沙羅樹の間に、阿難が衣を折りたたんで作った床の上に静かに横になられました。北を枕にし、右脇を下にして、両足をきっちりと重ね合わせ、最後の説法を終えてやがて静かに目を閉じられたのです。

 お釈迦様の八十年の御生涯のうち、四十五年間は伝道の旅に明け、説法の旅に暮れた遊行の人生でした。横になられて最後の説法をなさろうとした時、悲しみに打ちひしがれて慟哭する阿難にお釈迦様は言われました。「阿難よ、泣くのをやめよ。私はかねてより教えてきたではないか。すべての生けるものに別れは必ずあるのだ、と」

 お釈迦様に諭されて、阿難は涙をぬぐい、クシナガラの町の人々にお釈迦様が間もなく入滅されることを伝えに行きました。それを聞いて町の住民のほとんどが、お釈迦様を拝そうと集まりました。人間ばかりでなく鹿や馬や牛、小さな昆虫から巨大な象にいたるまで五十二種の生類が、お釈迦様との最後の別れのために集まってきたと、仏典に書かれています。

 そして「私の最後の言葉を告げよう。なべて世は無常である。怠ることなく精進を続けよ」と言い残して、静かに息を引き取られたのです。

 「涅槃」とは生命の火の消滅を意味します。燃え続けていた生命の火が消え、お釈迦様は永遠の安楽国……真理の世界に帰還されたのです。

 安養寺では、三月の一ヶ月間、江戸時代から伝わる、お釈迦様の御入滅の様子を描いた大涅槃図(縦十七尺、横十尺余)を、本堂に掲げています。是非お参りを……。

 

 


2017.01.01
門松は冥土の旅の一里塚

正月になると思い出す逸話があります。一休宗純禅師……「一休さん」と呼んだ方が馴染みが深いでしょう。一休さんは明徳五年(1394)正月一日、京都の生まれです。

一休さんが京都大徳寺の住職だった頃、ある年の元旦、墓場から髑髏(されこうべ)を拾ってきて竹竿の先に結びつけ、「皆の衆、よく見なされ。この髑髏の、ここのところに穴が二つある。昔はここに目玉があった。だが目玉は飛び出してしもうた。目が出た、目が出た、こりゃ目出度いのう」と叫びながら京の町を歩き回っていました。たまに商家の門を叩き、出てきた家人の目の前に髑髏をにゅっと突きつけ、「油断めさるな、油断めさるな」と……。それで京の商家では、元日から三日間は店を閉ざしておくことになったそうです。

この逸話、後世の作り話のようですが、しかし一休禅師の面目躍如と云うべきでしょう。実は一休禅師の著述の中に『骸骨』というのがあり、その中で骸骨との会話という形で、禅の教えを語り、人間としての正しい生き方を示しているのです。

正月の髑髏の逸話で、一休さんが言いたかったこと……それは、「私たちは自分の肉体に執着しすぎている。だが肉体というのは、仮の住まいに過ぎない。いくら永くてもせいぜい百年、この肉体という仮の住まいに下宿しているだけだ。下宿に執着しているとそこは牢獄になる。私たちは肉体という牢獄から自由になるべきだ」と言うことなのでしょう。

一休禅師の道歌です。『門松は冥土の旅の一里塚、馬駕籠もなく泊まり屋もなし』


2016.12.01
成道會……お釈迦様の悟り

12月8日は、凡そ二千五百年前、遠くインドの地で、お釈迦様が悟りを開いて仏陀となられた日、成道會(じょうどうえ)と呼ばれる日です。成道とは「仏と成る道」が完成したという意味と捉えてよいでしょう。4月8日の花祭りがお釈迦様の誕生日であることは広く知られていますが、この12月8日の成道會のことはあまり知られていないようです。しかし、この12月8日のお悟りがなければ、私たちはお釈迦様という人物を知ることも、もちろん仏教という宗教にも出会うことは出来なかったのです。

ところであなたは、仏陀という言葉を、お釈迦様の釈迦と同じく、人の名前と思ってはいませんか? お釈迦様、つまり釈迦牟尼とは釈迦族の尊き人という意味であり、仏陀は真理に目覚めた人、悟りを開いた人という意味なのです。

ではお釈迦様は何に目覚め何を悟ったのでしょうか。それは「ダルマ(いわゆる達磨様のことではありません)」日本語では「法」と訳されている世の中の真理です。端的に言うと次の四つの真理です。

一、人生は苦である。

二、その苦は執着から生まれる。

三、苦しみをなくすには執着と欲望をなくすことだ。

四、偏らない、とらわれない、こだわらない生活を実践することだ。

お釈迦様は、一大道理に目覚めたのですが、私たちは到底お釈迦様には及びもつきません。肝心なのは、自分がまず命を与えられていることに目覚め、自分がどういう人間であるのか、自分自身を正しく見つめ、自分の役割や生き方を折に触れて反省する姿勢が必要なのだと思います。

月初めに成道會のあるこの12月こそ、一年を振り返りながら、新しい年に向けて、改めて精進を誓う月にしたいものです。


2016.11.02
災難をのがるる妙法

災害列島の日本で今年も台風や大地震、果ては噴火等天災が相次いで襲いました。被災地の方々には心からお見舞い申し上げ、一日も早い復興をお祈りします。

文政11年11月12日、越後の三条を中心に大地震が起きました。倒壊家屋9、800戸、消失家屋1、200戸、死者1、443名にのぼったといいます。

良寛さんはこのとき71歳。私たちは親しみを込めて「良寛さん」と呼びますが、正式の名を「大愚良寛」といって、曹洞宗の偉い禅僧です。同時に歌人であり、書家でもありました。しかし良寛さんは、そう呼んだ方が親しみ深く、人柄が偲ばれます。

地震の後良寛さんは、ある親しい友人に、自らの無事を知らせる手紙を出しています。

「地震はまことに大変に候。野僧草庵は何事なく、親類中死人もなく、めでたく存じ候。〝うちつけに しなばしなずて ながらへて かかるうきめを 見るがわびしさ〟

しかし、災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるる妙法にて候。」

災難にあったとき、私たちは蜘蛛の巣に引っかかった虫のように、じたばたともがき苦しみます。じたばたしたってどうにもならないことを知りつつ、じたばたせざるを得ないのが、凡人の凡人たる所以でしょう。

災難に逢えば、災難とあきらめて受けとめ、無心でいればよい。災難の中であれこれ思い煩うことをやめよ……というのが良寛さんの教えなのでしょう。しかし災難に逢って無心でいられるのは、やはり良寛さんが悟りを得た禅僧だからです。私たち凡人には、そうとわかっていても、なかなか出来るものではありません。

私たちはいっそ、あきらめきれない生き物なのだとあきらめるしかなさそうです。だからこそお互いがお互いを思いやり、助け合うことが大切なのです。

良寛さんの辞世の句です。「うらを見せおもてを見せてちるもみぢ」


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