2016.10.03
一休さんの頓智「外見だけでの判断は間違いのもと」
薄手半袖の夏物から、厚手の長袖に変わる衣替えの季節、こんな話を思い出しました。日本人のほとんど誰もが知っている室町時代の禅僧、一休禅師のエピソードです。
「一休さん」と言った方が馴染みが深いでしょう。名刹大徳寺の住職として京都では超有名人となっていた一休さんでしたが、若い頃からの茶目っ気ぶりは相変わらずでした。ある時京都の大きな商家で盛大な法要があり、その導師に一休さんが呼ばれました。一休さんは気軽にその役目を引き受けたのですが、そこで持ち前の茶目っ気を発揮したのです。どこからか破れ目のある汚い着物を見つけてきて、手足を泥で汚し、菰(ムシロ)をかぶってその商家へ行き、玄関から入ろうとしました。驚いたのは家の主人です。「見苦しい奴め、さっさと追い出せ !」と、下男に命じてさんざん棒で打たせて外に追い出してしまいました。
その後、一休さんは立派な金襴の衣に身を包み、堂々と商家の門前に立ちます。主人は「どうぞ、どうぞ」と奥へ案内しようとしました。
「いや、わしはここで結構」と、一休さんは玄関を動こうとしません。
「ここは身分の低い者が座るところです。さあ、どうぞ奥へ……」
「では、わしのこの衣だけを奥へ連れて行きなさい。中身のわしは、ここから追い返されたのじゃからな……」
主人は自分の浅はかさに気付かされて、身の置き所をなくしてしまいました。
実はインドでも同じような話が伝えられています。ある高僧が粗末な衣で訪れたとき、門前で追い返されました。ところが立派な衣を借りて行くと、素晴らしいご馳走を供養されました。そこでその高僧は、供養のご馳走を、着ている衣に与えるように振りまいたというのです。
外見だけで人間を判断する愚かさを戒められる逸話でした。
2016.09.04
「和顔愛語」の布施
「仏頂面」といえば、無愛想な不機嫌にふくれた顔をイメージします。仏頂尊という仏様がおられて、その面相が恐ろしいので、そこからきた言葉だという説があります。仏様の顔にケチをつけたような気がしなくもありませんが……。
「無量寿経」というお経に「和顔愛語」という言葉があります。人に接するときは、和やかな顔色と優しい言葉でせよとの教えです。仏頂面をしている人は、他人のことを考えないエゴイストとして、欧米では嫌われるそうです。欧米人の間では、ほほえみは最高のエチケットなのだそうです。4年後の東京オリンピックには大勢の外国からのお客様が訪れることでしょう。「和顔愛語」こそが何にも勝る最高の「おもてなし」かも知れません。
私は赤ん坊が大好きです。特ににこにこと笑っている赤ん坊の笑顔には、本当に心が暖まります。親にすれば我が子のあどけない笑顔で疲れもストレスも吹っ飛んでしまいます。赤ちゃんは私たちに笑顔の布施をしてくれているのです。
赤ん坊はみんなの世話になるだけで、自分では何一つできません。しかし、そんな赤ん坊にだって、笑顔の布施はできるのだと、仏様はきっと赤ん坊に笑顔を授けられたのでしょう。赤ん坊の笑顔は仏様からの授かり物なのです。我々大人が、その大事な授かり物を失ってしまっているのはどうにも残念です。
笑顔と優しい言葉の布施は、誰にでもできる布施です。病気でベッドにいる人でも、寝たきり老人にでもできる布施です。しかも一銭のお金もかかりません。
赤ちゃんの笑顔を思い出して、和顔愛語の布施を心がけたいものです。
2016.08.01
「死に方」はどうでもいい
勤勉な真面目派か、気楽なズボラ派か、と問われたら私は後者の方であろう。いや、後者でいたいと思う。例えば、世の中にはいくら考えても解決のつかない問題が山ほどある。そんな時真面目な人は、これは難問だと言いながらとことん考えるから、どうしても鬱病等になりやすいそうである。だがズボラ者の私は、いくら考えてもわからないことは考えるだけ無駄だと考える。そこがズボラ者のズボラたるゆえんである。
例えば「自分の死」を考えるとき、やはり私は安らかな死を願い、従容として死にたいと思っている。でも、それが私にできるだろうかと思うと、全く自信がない。なので私はこう考える。「なにも死に際を美しくする必要はないではないか」と。「別段のたうちまわって死んでもかまわんだろう」と。
そう考えるのは私がズボラ者だからであるが、しかしそう考えたとき、ものすごく気が楽になる。のたうちまわって死んでもいいのだとなれば、私は安心して死ねるような気がするのだ。
そして私はこんな風に思う。仏様は我々を仏の国に迎えてくださるが、その時仏様が言われるであろうか? 「安らかに死んだ人だけ仏の国にお出でなさい。のたうちまわって死んだ奴は入国禁止」と。そんな馬鹿なことはないだろう。仏様は、従容として安らかに死んだ人も、死にたくねぇ~と叫びながらみっともなく死んだ人も、すべて平等に仏の国に迎えてくださる筈だ。
だから私たちは、どんな死に方をしてもよい。美しく死ねる者は美しく死ねばよい。死に際を飾ることはあるまい。ありのままに死んで行けばよい。どんな死に方をしても、後は全部仏様が面倒見て下さる。私たちは仏様に甘えておけばよい。仏様に甘えられることが、仏教の信仰なのである。
2016.07.01
兎と亀
兎が脚の遅い亀をからかい、向こうの山の麓まで競争することになった。しかし、兎は油断をして昼寝をし、結局負けてしまった。童謡にも歌われて、日本人なら誰でもが知っている話である。
「では兎はどうすべきだったろうか?」と問えば、ほとんどの日本人は、「兎は油断せず、昼寝しなければよかったのだ」と答える。この話は第一義的には油断を戒めたものだから、それが「正解」だろう。ところが、こんなことを主張する人がいたそうだ。「亀がいけません。兎は悪くないのです。悪いのは亀です。兎が昼寝をしているその横を通るとき、"もしもし兎さん、寝てなんかいないで目を醒ましたらどうですか......”と、亀はなぜ声をかけてあげなかったのでしょうか。それが本当の友情ではありませんか」
そんなことをついぞ考えたことがなかった私は、それを聞いて驚いた。
この「兎と亀」の話は遠い中東の「イラン」にもあるそうだ。しかしイラン版「兎と亀」は、だいぶ日本版とは違う。競争の前に、亀は自分とそっくりの弟をゴールに立たせておいて、それで亀が競争に勝ったことになっている。イラン版は、そのような亀の知恵を称賛する話とされている。
ではお釈迦様の国インドではどうだろう? 多くのインド人に聞くと、異口同音に「亀が悪い」と答えるそうだ。亀には友情がないと、インド人は「友情」を強調する。「でも友情を発揮すれば、競争に負けるではないか......」と問い返すと、「競争に負けてもいいじゃないか。どうしてあなたはそんなに競争にこだわるのか?!」と答える。さらに別のインド人は言う。「兎は昼寝をしていたというが、実は昼寝ではなく病気で苦しんでいたとすればどうなるんだ?!やっぱり声をかけてやるべきだ」と。
私は、競争と効率と成長ばかりを叫んでいる(ほとんど経済のことだけ)現在の日本人が恥ずかしくなった。日本人は大事なものを忘れているように思えてならない。
2016.06.01
やわらかいこころ
山々の緑が一層深みを増してきました。中国には緑翠三千という言葉があるそうです。白っぽい緑から暗い緑まで一本一本の草木ごとに違う緑ですから、三千どころか無数と言っていいでしょう。田や畑も息づいています。冬枯れの山野から数ヶ月、自然が秘めている力強さと柔らかさを感ぜずにはいられません。ゆっくりと、それでいて季節という時に間に合うように、木々の枝葉は柔らかく伸びていきます。改めて四季の移ろいのある日本の気候風土が有り難く尊いものに思われます。
こんな詩をみつけました。「やわらかいこころ」と題されています。
木の芽がのびるのは やわらかいから、 若葉がひろがるのは やわらかいから、
かすかな風にも 竹がそよぐのは 竹がやわらかいから、
年を取って困るのは 足腰ばかりではなくて 頭が硬くなることです、 心が硬くなることです、
やわらかいこころを持ちたいものです、 いつまでも心の若さを保つために……
これは書家であり詩人であった故相田みつをさんがうたわれた詩です。
「もっともっと、のびのびと人生を歩もうではないですか。 いただいたこの命、天地いっぱいにひろげて、
やわらかく生きようではないですか」と相田さんはうたっているのです。
あなたの心、柔らかですか ? 凝り固まっていませんか ?