2018.06.01
水が石を変える…「さざれいし」に思う
「君が代」の『細石(さざれいし)の巌(いわお)となりて……』とは、日本人の大人は誰でもが知っている歌詞でしょう。
実は、この歌詞に歌われている「さざれいしが集まり固まって出来たいわお」が、当安養寺の境内にひっそりと存在しています。数年前に某石材店の社長さんが、「方丈さん、これは全国的にも珍しい細石(さざれいし)ですよ!」と指摘してくれて初めて気付いたのですが、科学的に、又歴史的にどうなのか、真偽の程は不明です。ただその形状を見るにつけ、自然の力のとてつもない大きさと、時の流れの不思議さを思わずにはいられません。
「水が石を変える」という例え話があります。河原の下流に、たわいもなく転がっている石には、おおよそ丸いのが多いようです。また逆に、上流の方へ行くと、鋭くごつごつした石が目立ちます。丸い石も、ごつごつした石も、もともとから丸い形やごつごつしていたのではなく、永年に渡り、水の流れに形を変えられ、急激な上流では鋭い形に、ゆるやかな下流では、丸く変わっていく、自然の摂理が働いていると言えましょう。
言うまでもなくそれは、一日や一年の時の刻みではなく、数百年、あるいは数千年の時間の積み重ねが、石の形をも変える水の流れなのです。
当寺境内の「さざれいし」も、それこそ何百年、何千年の時の流れの中で出来た、自然界からの貴重な贈り物と思えば、素直に有り難く、あだやおろそかには出来ません。
古代インドの人々は、自分の一生の間には、厳しい修行を積んでも悟りを得られないと解っていても、何代も生まれ変わり、その後に悟りを開くため、今日の精進を怠らなかったと言われます。またインドの壮大な建築物なども、今日のような機械も道具もない時代に、親の代から子供の代、孫の代、曾孫の代と、何代もかけて、一つのものを仕上げた結果だと言われます。
便利にスピード化された今日では、私たちは限りある一生の単位でしか、仕事も行動も考えなくなっています。本当に私たちの時間は、私たち一生の間だけで終わるものなのでしょうか。死は、一切全ての終わりではなく、仏の国での永遠の命をいただくものと、お釈迦様はお諭し下さいました。どんなに時間があったとしても、大切なのは、「今」この一秒一秒なのです。その積み重ねこそが、小さな石ころ(私)を大きな巌(仏)にも変えることとなるのです。
2018.05.01
どんな生命(いのち)も皆平等
四月中旬の某新聞の読者投稿欄に、胸に響く嬉しい文章が掲載されていましたので紹介します。
埼玉県の15歳の女子高生、井野川真梨さんの投稿です。『ムクドリとパンダ 命平等では』と題して次のように記しています。
『この時期、私の街にはムクドリが寝床を求めてやってくる。毎年の恒例だが、近年、急に市が彼らを追い込む運動を始めた。街路樹の枝を切り、ねぐらへ帰る夕方に、鳥よけのサイレンを鳴らし続ける。昨年のある朝、2羽死んでいた。ストレスのせいだろう。母と近所の土手に埋めに言った。怒りがこみ上げた。何もなければ自由に空を飛んでいたはずの命だ。市役所に、なぜそんなことをするのか、やめて欲しいと訴えたが「住民が迷惑しているから」の一点張りだった。確かに、フン被害や鳴き声は人間にとって困ることかもしれない。けれど、汚れた道は掃除すればいいし、鳴き声も生活に支障をきたすほどではない。対策をするにしても、方法があまりにひどすぎると感じた。赤ちゃんパンダの誕生や、絶滅危惧種の繁殖のニュースはなんともうれしい。けれどその裏で小さな命が人間の勝手によって失われている。これはムクドリに限ったことではない。なぜ同じ命なのに扱いがこんなにも違うのか。幼いとき、「どんな命も平等だ」と誰もが教わったはずだ。人と動物の共存を、今一度考えるべきだと強く思う。』(全文そのまま)
なんと素晴らしい考えでしょう。こんな素敵な高校生がいることを思うと、驚きと共に、感動さえ憶えて、まだまだ日本も捨てたものではないという気になります。この投稿者の真梨さんのご両親も、きっと素敵で深い愛情に満ちた情操豊かな素晴らしい方達なのだと想像します。
お釈迦様は、ご誕生の時『天上天下唯我独尊』と仰せられたと伝わっております。これは即ちお釈迦様のお悟りそのものであり、本来の意味は、「この世に生きる全ての生命は、絶対無二の存在であり、それぞれが全て尊い存在なのだ」と言うことなのです。
最近青少年の間には、人の命を些細なきっかけで傷つけたり、恐ろしい方法で殺したり、以前には考えられなかったような、「生命」に対する価値観の違いを感じずにおれない事件が頻発しています。青少年の思想は、幼年期の情操から決定すると言われますが、それだけに深い愛情に裏打ちされた厳しいしつけが、今の時代は求められているように思います。「玉磨かざれば光なし」の言葉の如く、親と子の向き合い方を反省する必要があるようです。真梨さんのような情操豊かで素敵な若人が一人でも多く現れるために。
2018.04.02
花咲か爺さん
長く厳しい冬がようやく終わりを告げ、この東北にも春爛漫の季節の到来です。今年の冬は殊の外寒く、豪雪に見舞われたため、春の訪れとともに次々と咲き出す野山や庭の花々が、一層眩しく新鮮に感じられます。
花と言えば、日本では何と言っても桜の花。俳句の世界でも、「花」と言えば桜の花を指し、代表的な春の季語になっています。和歌の世界でも「花」即ち桜はかなり古くから歌われており、小野小町の代表的な歌にも『花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに』という一首があるのはご存じでしょう。
ところで桜の花と言えば、日本には有名な「花咲か爺さん」の昔話があります。これは室町時代から、江戸時代の初め頃の間に作られたおとぎ話とされています。善い行いの爺さんが、枯れ木に登って灰をまくと、満開の花に変わり、お殿様からご褒美をいただくというこの話は、誰でも一度は聴いたり、話したりしたことのある話でしょう。
この花咲か爺さんのモデルとなった人とは、実はお釈迦様だったのです。枯れ木とは、迷いや苦しみから抜け出せずにいる人々のことであり、花咲かじいさんのまいた灰とは、お釈迦様の説かれた教え、即ち仏教のことを言っているのです。お釈迦様は困っている人、苦しみ悩んでいる人々の、各々にふさわしい教えを授け、暗く、枯れ木のような潤いのない生活に、明るくみずみずしい花を咲かせ、人々を救って下さいました。日本の花咲か爺さんは、お釈迦様をなぞらえて生まれたのです。
現代の私たちの生活を振り返ってみましょう。心に花は咲いていますか? 渇いた潤いのない枯れ木のような心の状態ではありませんか? 満足することを知らない、欲望の中に生きている人があまりにも多いと思われませんか?
私たちも自らすすんで、花咲爺さんの灰、つまりお釈迦様の教えを求め、心の中に美しい花を咲かせたいものです。
2018.03.01
自然の理法……啓蟄に思う
日本には1年を24等分して季節を表す『二十四節気』という語があります。元来は中国伝来の言い方なのですが、これが民衆の心や生活にいまだに深く根ざしているのは、恐らく日本だけだと思われます。(二十四節気の詳細は文末に記載します)
季節の移ろいに対する日本人の敏感な感受性が、俳句や短歌といった独自の文化を生み出す元となったと言っていいかも知れません。
さて、春の訪れを表す代表的な語といえば「啓蟄」でしょう。土の中に潜んで冬籠りしていた諸々の虫たちが、穴から地上に出てくるという、二十四節気の一つです。寒い日が続いたと思うと、暖かくなっていく三寒四温の言葉を肌で感じ、雪深い東北の春も間近です。二千年以上の日本の歴史の中で、冬の次に春のやって来ない年など、一度としてないはずです。大自然の動かざる法則、これを「自然法爾」と呼びます。
お釈迦様のお悟りによれば、この自然の法則も、突き詰めて言えば「縁起(縁によって、ものみな起こり生ず)」の法則に至るのだと、解き明かされました。
冬が過ぎて行き、春が訪れる。そこには、太陽の光、地球の回転、水の流れ、樹木の成長、ありとあらゆる自然界の営みがあって、私たちに春を感じさせてくれるのです。もしも自然界の営みに異変が生じれば、たちどころに、私たちにも異なった感覚や、場合によっては生き死ににも関わる極めて重大な影響を与えることでしょう。
ただ漠然と、冬から春へ移ることを、自然の法則というのではありません。冬から春へ移るための、あらゆる縁に生命(いのち)を与えている、宇宙的に大きくはるかな仏の生命があることを「自然法爾」と呼ぶのだと知っていただきたいのです。そして、私たちの生命も、その自然の仏の生命の中に生かされていることを思い出して欲しいのです。
『二十四節気』
春→立春、雨水、啓蟄、春分、清明、穀雨
夏→立夏、小満、芒種、夏至、小暑、大暑
秋→立秋、処暑、白露、秋分、寒露、霜降
冬→立冬、小雪、大雪、冬至、小寒、大寒
2018.02.01
四苦八苦
受験シーズンの到来です。私には三人の弟子がいますが、一番年長の弟子の長男が、この春高校受験だそうで、様子を聞いたところ、「いやあ、”四苦八苦” しているようです」との答えが返ってきました。
四苦八苦……四つの苦しみと八つの苦しみ。
実は、この『四苦八苦』は仏様の教えを示す仏教語なのです。
まず四苦。四つの苦しみとは、生老病死(しょうろうびょうし)と言い、お釈迦様が明らかにされた、人間として誰もが持っている苦しみのことで、一にこの世に生を受けること、二に年老いること、三に病気になること、そして四に死ぬこと。この生老病死を四苦といいます。
さらにこの四苦に続いて、私たちがこの世に生きていく上で、逃れることの出来ない四つの苦しみがあるとお釈迦様は教え示されました。
一つは愛別離苦(あいべつりく)といって、愛する人々と別離する苦しみ、二つには怨憎会苦(おんぞうえく)といって、うらんだり憎んだりする人に出会う苦しみ、三つには求不得苦(ぐふとくく)といい、お金であれ物であれ、地位であれ名誉であれ、求める物を得られない苦しみ、そして四つ目が、五蘊盛苦(ごうんじょうく)で、肉体が盛んなるが故の精神の苦しみ。
はじめの四つの苦しみと、後に続く四つの苦しみを合わせると八つの苦しみになることから、『四苦八苦』という言葉が生まれたのです。
この八つの苦しみは、人間であれば誰もが分けへだてなく持っている苦しみであることを、お釈迦様はしっかりと見極められて、この苦しみから救われる道としての教えを探し発見し、私たちに教え示されたのでした。
『四苦八苦』といえば、今では単に物事がうまくいかず、あくせくしたり右往左往する意味で使われますが、実は、仏様の教えの出発点になった重要な意味を持っている仏教語なのです。
そういえば、私の近い知り合いで、電話番号を4989(しくはっく)にしている寺院がありますが、何とも示唆とユーモアに富んだ和尚もいるものだと感服したものでした。