住職の法話

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住職の法話一覧

2018.12.01
今出会っていることこそ大切


 お釈迦様のおさとしです。ゆっくりと、二三度繰り返して詠んでみてください。

   過ぎ去れるを追うことなかれ

   未だ来たらざるを念(おも)うことなかれ

   過去、そはすでに捨てられたり

   未来、そはいまだ到らざるなり

   ただ今日まさに作(な)すべきことを 熱心になせ

   たれか明日死のあることを知らんや

 わかりやすく言いますと……

 「過ぎ去ったことを追わない。まだこれからのことをあれこれ考えるな。過去はもう捨てられたも同じ。未来は来てみないとわからない。それよりも、今日ただいま、やらねばならないことを熱心になすべきだ。明日死んでしまうかも知れないのだから」

 この教えの大切なところは、『ただ今日、まさに作すべきことを熱心になせ』というところでしょう。

 私たちはともすると今に目を向けることを忘れて、過ぎたことをくよくよ思い悩んでみたり、明日あさって、いや一年も二年も先のことを不安に思ってみたりすることが多々あります。

 そんなことより、今自分が出会っていることにガップリと取り組むことです。今なすべきことをなさなければ、未来も来ないのです。あなたにとって、今なさねばならないことは何ですか。心を落ち着けて考えてみてください。充実した日暮らし、充実した人生は、そこのところから生まれるのだとおもいます。

 いつもながら何かと騒がしい年の瀬ですが、そんな時こそ来る年に向かって、落ち着いた静かな気持ちを取り戻したいものです。


2018.10.01
人にはそれぞれ一人前の命の意味と役割が……


 「10本の指に同じ長さのものはない」……ハッとするような言葉に出会いました。

沖縄県の新しい知事に選ばれた玉城デニー氏は、米軍統治下の沖縄で、米兵の父と日本人の母との間に生まれ、養子に出されていた子供の頃、見た目の違いからいじめられ、そのたびに養母から「10本の指」の話で慰められたそうです。

 長さの違う10本の指のそれぞれに意味と役目があり、無駄な指などはないのと同様に、人それぞれに違いがありながら、生まれてきたことの意味と役割が備わっていて、無駄な命などはないのだという、命の尊さと人間社会の多様性を尊重する素晴らしい言葉です。「誰一人取り残さない政治をしたい」という思いで政治家になった玉城氏の原点と言える言葉でしょう。

 物質文明があまりにも発達し過ぎて、心のありようの問題が軽んじられてきてしまったからでしょうか、人それぞれに似合った持ち味がありながら、それを認めようとしない偏狭な思想や言動が、政治や言論の世界に特に目立つのは悲しいことです。更に最近は自分を見失っている若者が実に多いように思われます。この世に生まれてきたことの意味や、自分に与えられた役割は何か、というようなことを一度も顧みることなく一生を終えては、せっかくいただいた命を無駄にすることに他なりません。

 人間は、家庭や学校、職場や地域社会の中で、様々な経験をしながら、日々少しづつ一人前にと成長していきます。その一人前について、かつて五千円札の顔になっていた新渡戸稲造が、次のように語っています。

 「私たち人間それぞれを、徳利にたとえたとする。ひとりは一升徳利。もう一人は二合徳利。一升徳利には酒が半分入っている。二合徳利には酒が口元まで、溢れるばかりに入っている。果たしてどちらが一人前であろうか。二合徳利の方が一人前であろう。つまり、小さくとも、自分という器に精一杯酒を入れている。逆に一升徳利は、器は大きいが、与えられたその器に充分に酒を入れていない。各々の才能と力量の限りを尽くすことこそ、一人前というのである。また自分が一人前の仕事をしているかを計る基準は、己自身にある。つまり、自分が一人前の仕事をし、一人前の人間であるかは、己を知らなければならないことになる。二人前や三人前は必要ない。一人前だけでいいのだ。他人の己を知らざるを嘆くな。己自身が己を知らざることを憂いよ」

 耳の痛い話です。己を知り己を探求し、その上で他を認め尊重すること、それは仏教に言う『智慧』そのものです。

 


2018.09.01
七味トウガラシと現代の菩薩様


  「人生は七味トウガラシ」という言葉に出会いました。ある占い師が言った言葉なのですが、実にうまいことを言うものだと感心しました。とは言っても、このトウガラシは「七味」ではなく「七み」で、人生の毒になる物なのだそうです。

 いわく「うらみ」「つらみ」「ねたみ」「そねみ」「いやみ」「ひがみ」「やっかみ」と。

 よくよく考えると、人を翻弄するこれら七つの性(さが)は、いずれも自分と他人とを比較することに由来しています。言わば他人と比べることでしか自己を見ることの出来ない人の心に宿る病や弱さと言ってよいでしょう。人は一人では生きられない、というのは古今東西の真理ですが、だからこそ人は他人の動向や様子が気になるのかも知れません。しかし、人が仏になる、すなわち成仏するということは、様々な迷いや悩み苦しみから解き放たれて、真の自由な存在になるということだと、お釈迦様はお示しです。それは正しくこの「七み」の世界から少しずつでも脱却することに他なりません。

 そんなことを考えていた折も折、この夏文字通り生き仏のような人のニュースが、全国の茶の間に飛び込んできました。山口県の大島町で行方不明になっていた2歳児が、68時間ぶりに無事助けられたというのです。山中で発見し助けてくれたのは、捜索ボランティアとして大分から駆けつけた尾畠春夫さん(78歳)でした。

 尾畠さんは65歳まで地元で鮮魚店を営み、引退後は「世の中にご恩返しをしたい」との一心で、全国の災害地に足を運び、ボランティアにいそしんできたそうです。勿論この夏の西日本豪雨や、かつての東日本大震災でも、遺品探しや泥かきに汗を流しました。この尾畠さんを見て私が特に感じたのは、見返りを求めぬ無償の愛の姿でした。かわいい孫を助けてもらったご家族から、風呂や食事をすすめられても、ごく自然な様子でことわり、活動に必要な衣類や食料や道具類などを山と詰め込んだ軽ワゴン車で、飄々と爽やかに帰って行く有様は、真の菩薩行を見る思いでした。今日もどこかで尾畠さんは、ボランティアで汗を流しているのでしょう。

 尾畠さんこそ、冒頭の「七みトウガラシ」とは対極にある、真の自由人のように思います。政治の世界をはじめ、何かと不愉快なニュースばかりが目や耳に付く昨今、まさしく一服の清涼剤をいただいた思いでした。


2018.08.01
無事こそ幸せ…はだかにて生まれてきたに何不足


 この夏、西日本の各地では、史上稀に見る豪雨に見舞われ、220余の尊い命が奪われました。更に異常なほどの炎暑のため、熱中症による死者が続出しています。

 一切皆苦……お釈迦様は、この世は苦しみの世界で、安らぐところなど、たやすく求められるものではないとお説きになりました。事故や災難に出会う、それが当たり前だというのです。何もない平穏な毎日、それが不思議だというのです。言うまでもなく、今辛うじて無事でいる私たちも、決して他人ごとではなく、何時そのような厄難に出会うか、何の予知も出来ません。だからこそ、今が無事であることの有り難さと尊さを、そして今日一日が平穏だったことが、実は不思議なことなのだということを、もう一度かみしめたいものです。

 いずれにせよ、被災された方々の、想像を絶する苦しみを想うと、一日も早い復興と、平穏な日常を取り戻されることをただただ祈るばかりです。

 『はだかにて生まれてきたに何不足』

 これは、俳人一茶の句です。生涯赤貧に甘んじて俳句を作り続けた一茶らしい句です。ともすると、あまりの貧しさにわが身が情けなく悲しくなったのでしょうか。そこで自分自身に向かって、「なあに、生まれたときは裸だったじゃないか。今さら何を不足を言うのだ」と自分自身を叱りつけた句のようにも思えます。

 『やれ打つな蠅が手をする足をする』『雀の子そこのけそこのけお馬が通る』

 こんな優しい句を作った一茶ですが、一面どんなに貧しくてもくじけず、今無事であることの幸せを噛みしめながら、ただ一途に俳句を作り続けた、おおらかで強い精神の持ち主だったようです。小中学校でも一茶のことを学びます。

 聞くところによると、どこの学校も忘れ物が山のようにあって、持ち主がいるはずなのに取りに来る子が極めて少ないそうです。なくなったら買えばいい。すぐ買ってくれる。まだ十分使えるのに新しい物を買う。

 小中学生ばかりでなく、私たち大人も同じです。欲しい物が手にはいると、すぐ次の物が欲しくなります。次から次へと、何時止むとも知れないのが物欲です。西日本各地の被災者の、筆舌に尽くせないご苦労を目の当たりにして、改めて何はなくとも今日一日の無事平穏に手を合わせて感謝したいものです。


2018.07.02
宇宙の中の私…「愛別離苦」は誰にでも


 2014年の暮れに打ち上げられた小惑星探査機「はやぶさ2」が、地球から3億2千万キロ彼方の小惑星「りゅうぐう」に、3年半もの年月をかけて到着したというニュースが大きな話題になっています。途方もなく遠い彼方の小惑星に、人間が作った探査機を到達させただけでも驚きですが、完全な無重力で高真空、強烈な放射線を浴びながら、しかも日向では輻射熱が120゜、日陰ではマイナス120゜にもなる過酷な空間で、生命の起源の謎に迫る様々な実験や標本の採取をして、2020年には地球に帰還するというのですから、このミッションに携わっている科学者達の頭脳は、一体どのようなものなのか、素人の私には想像も出来ません。

 なので……和尚の私でも出来る宇宙のお話しをします。

 牽牛と織り姫の二つの星が、一年に一度だけ巡り会う七月七日の七夕は、笹の枝葉に、願い事を書いた短冊を吊るして祈る庶民的な行事として親しまれています。彦星こと牽牛星と、織り姫こと織女星は、ともに白色の一等星で、地球から離れること、牽牛星が十六光年、織女星が二十六光年という途方もない距離にあります。この二つの星が天の川をはさんで一年に一度、煌めきあう宇宙の不可思議を思うと、私たち一人一人の存在の何とちっぽけなものか、思い知らされます。

 その小さな一人の人間の一生に、嬉しい出会いがあり、悲しい別れがあり、笑ったり泣いたり、様々な感情が止むことなく川の如く流れています。小さな私たちの想いも、壮大な宇宙の中の牽牛と織り姫も、愛する者との別離の苦しみは、等しく重みのあるものです。それは「一人の人間の生命は、地球よりも重い」というたとえに言われるとおりです。

 今日都会では、七夕の日に牽牛織女を見つけるのはなかなか難しくなっています。しかし、等しく大宇宙の中に生命をいただくことのできた幸せを想い、愛する者とはいつか必ず別れなければならないという「愛別離苦」の苦しみも、仏から授けられた修行と受け取って、織り姫と彦星に祈りを捧げれば、素晴らしい七夕の行事となるでしょう。

 七夕の星に限らず、宇宙には人の心を素直にさせる力があるようです。晴れた日の夜、満天の星を見上げて、自分の小ささ、愚かさに気付き、本物の自分を取り戻す……そんな一時を持つのも、現代の贅沢の一つかも知れません。

 


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