住職の法話

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住職の法話一覧

2020.03.01
春彼岸に寄せて



 史上稀に見る歴史的な暖冬でしたが、それでも周囲の風景は確実に移ろい、明るく穏やかな春はすぐそこに来ているようです。この安養寺でも、すぐ近くの丘で、春を告げる「まんさく」が早々に開花し、境内にその芳香を漂わせています。梅の蕾も大分ふくらんできました。いよいよ彼岸の季節です。

 彼岸と言えば、多くの壇信徒の方々から質問されて、困ることが屡々あります。例えば「和尚さん、お彼岸にお寺やお墓へのお参りは、どうしてもしなければならないんですか? こんなのは単に昔からのしきたりなんでしょう?」などと聞かれたりするのです。

 テレビでも、お中日ともなると、方々の霊園の墓参風景が、歳時記のように取り上げられ、それを観ては気がついて「うちもせっかくお墓があるのだから」と、墓参りしないと、なんだか悪いことをしているような気になって、渋々と義務的に墓参りに行ったりする人もいるようです。

 ところで、お彼岸の「彼岸」という彼の岸は、「安らぎと悟りの世界」という、仏の世界を意味し、此岸(しがん)、すなわち今私たちが生きている、迷いや悩みや争いに満ちたこの娑婆世界の反対の意味として使われます。したがって彼岸の墓参りには、既に亡くなられた方々の幸福(冥福)を祈るばかりでなく、この世(此岸)にいる私たちが精進して、少しでも安らぎの世界へ近づこうという目的が、なくてはなりません。

 彼岸についてお釈迦様が教えているお経には、真の安らぎを得るためには、六つの大切な修行法(心がけ)があると説かれています。これを「六波羅蜜」と言います。

 一、物でも心でも喜んで与える人間になろうとする「布施(ふせ)」

 二、悪事を行わず、規則正しい生活をする「持戒(じかい)」

 三、困難や苦しみに負けない、我慢の「忍辱(にんにく)」

 四、良い教えに従って、努力を続けること「精進(しようじん)」

 五、人を憎まず、恨まず、穏やかな心を持ち続ける「禅定(ぜんじょう)」

 六、自信を持ってしっかりと生きるための「智慧(ちえ)」

の六つです。

 勿論、お墓参りすることも大事です。お墓や仏壇の前では、誰でも素直に正直に祈れる筈です。ただお墓や仏壇に祈る際に大切なことは、どんな人でも親の純粋な祈りに支えられ、生命(いのち)を育まれてきたということに思いを致すことです。そのことを思い起こせば、自然と親だけでなく、遙か昔の先祖達へも感謝の手を合わせたくなるというものでしょう。

 更に私たち自身が、どんな生活態度で生きるか思いを巡らすこと、それがお彼岸の大切な点なのです。

《添付写真は春を告げる「まんさく」の花と、安養寺所蔵の大涅槃図-旧暦2月15日はお釈迦様の御命日》

 

 

 

 

 


2020.02.01
樹氷も見納め?



 地球環境の保護を世界中に訴えて活動を続けるスェーデンの高校生、グレタ・トゥーンベリさんの国連での演説が、世界中の人々に衝撃を与えたことは、記憶に新しいところです。まだ17歳の少女が、あれほどの熱情と怒りを、世界中の指導者たちの前で示したのは、今地球上で起きている環境の激変に、ただ手をこまねいている大人たちへの憤りと、自分たちが大人になった時、果たして健康で安全に生きていられるのだろうかという、恐怖に近い心情の表れのように思います。

 にもかかわらず、グレタさんをはじめとする世界中の子供達の将来を案じて、率先して環境保全の施策を進めるべき、二つの超大国の指導者が、彼女を揶揄し、あざけるような発言をしたことを報じられたときは、開いた口がふさがりませんでした。世界の指導者としての資質を持ち合わせているとは到底思えません!!!

 今、地球環境が、わずか100年の間に激変していることは、誰の目にも明らかです。夏の極端な猛暑をはじめ、巨大台風や大洪水等は、毎年のように世界中で頻発しています。この冬などは、これまでの記憶にないような暖冬で、私の身近な所でも、我が寺からほど近い、世界的に有名な蔵王の樹氷が、例年の姿とは似ても似つかぬほと痩せ細っており、スノーモンスターと言われるイメージとは大違いのようです。

 こうした異常気象の頻発の原因が、この100年余りの間の、人間社会の経済一辺倒の営みにあることは、多くの専門家の指摘するところです。金や物、地位や名誉といった欲望に引きずられ、経済効率のみを追求する社会の営みが、今の結果をもたらしているのでしょう。

 グレタさんの主張は、まさしく欲望に引きずられた、経済一辺倒の大人社会に対する痛烈で悲壮な告発と言ってよいかも知れません。

 折も折、今月15日は、お釈迦様の御入滅の日……涅槃会(ねはんえ)です。お釈迦様は息を引き取る寸前まで、周囲に控える御弟子達に説法をなさいました。実はその最後の御説法こそが、「遺教経(ゆいきょうぎょう)」と言って、私たち僧侶が、死人の枕辺で詠む「枕経」そのものなのです。

 その「遺教経(枕経)」の教えの中に『少欲・知足』という有名な言葉があります。

 曰く「多欲の人は利を求むること多きが故に苦悩もまた多し。少欲の人は無求(むぐ)無欲なれば則ち此の患(うれい)無し」と。また曰く「知足の人は地上に臥すといえども安楽なり。不知足の者は天堂に処すといえどもまた意(こころ)に叶わず。不知足の者は富めりといえども貧し。知足の人は貧しといえども富めり」と。

 今こそ私たちは、2600年も前のこの教えを、改めて思い起こしてみるべきです。いずれにせよ、このまま異常気象と温暖化が進み、子や孫達の世になった時、地球の陸地のいたる所が水没し、狭くなったその陸地で、50年先は100億とも言われている人間と、その何倍もの動物たちがひしめき合い、土地と資源と食物を奪い合い殺し合う地獄のような世界にだけはならないことを、ただただ祈るばかりです。

【添付の写真は、数年前まで見られた蔵王の樹氷。今後はもう見られないかも……】

 


2020.01.01
老木に老醜なし



 また一つ歳をとりました。最近は年を経る毎に、自分の肉体や知能の衰えを実感することが多くなりました。何しろ若い頃は思いも掛けなかったようなことが、自分の身に起きて、ガッカリすることが屡々あるのです。

 1センチにも満たない段差につまづいて転びかけたり、足袋や靴下を立ったまま履けなくなったり、わずかな階段の昇降で息切れがしたり、それほどハードな運動でもないのに、怪我を負ったり、玄関の照明を点けっぱなしのままや、部屋の暖房を消し忘れて寝てしまったり、夜の寝付きが極端に悪くなったり、数え上げると我ながら嫌気がさすほどです。

 何より住職として戸惑うのは、お経を誦んでいて、若い頃のように息が長く続かなくなり、こんな筈ではなかったと思ったり、人に接して話すことが何かと多い立場なのに、「このことを表現するのに相応しい良い言葉があった筈だが……」と思いつつなかなか浮かんでこなくて、頭を掻きむしりたくなるようなことがよくあるのです。

 そんな時は「まあ歳だから」と諦めるようにはしているのですが……。歳をとると次第に減っていくものーー気力・体力・記憶力・寿命とはよく言ったものです。

 でもこんな言葉に出会って、自分を慰めたり、救われたりもしています。

 『老木に老醜なし』……木は樹齢を経れば経るほど、味わいがあり、醜さをさらすものなどない、という諺です。

 さて私たちは、樹木のような老い方が出来ているでしょうか。私自身のことを前述したとおり、老いてくると、物忘れがひどくなり、体も言うことをきかず、自分で自分が情けなくなります。また社会的にも、老いたる者を敬うという気風は消えつつあり、むしろ疎ましい存在とされてしまうような風潮も見られます。無論人間の中にも、歳をとればとるほど、人格が磨かれ、徳を増してくるという、仏教の目標に近い人もいます。何十年もかけて、年輪を重ねてきた老木が、一夜の雪の重さに枝を折ったとしても、それは私たちの目には、趣のある「あはれ」とこそ映れ、醜さなどを感じる人はいないはずです。恐らくは老木の、自然界の中で、ありのままに順応する姿に、美しさを感じるからなのでしょう。

 人間に置き換えれば、年輪を積み重ね、我執(とらわれ)のなくなった姿が、『老木に老醜なし』と言うことなのです。また若い人に対しては、苗木の頃より懸命に生きたればこそ、老木となった時、美しい枯れ方が出来るのだと、心して精進を続けるよう呼びかけたいものです。

 そして私を含む後期高齢者の皆さん、己の信じる道を着実に歩み続け、確かな年輪を重ねてきた「老い」こそが美しいのだと思い直して、お迎えが来るまで、楽しく、元気に、しぶとく、堂々と生きていきましょう。

 


2019.12.01
百舌の速贄(モズのはやにえ)



 この季節、晴れ間に歩いていると、道端の樹木の枯れ枝や、人家の生け垣の枝の先に、小さな蛙やトカゲ、昆虫などの死骸が引っ掛かっているのを見かけることが、偶にあります。これは野鳥のモズが、捕らえた獲物を樹木の尖った枝や、有刺鉄線のとげなど鋭利な物に突き刺しておき、餌が不足する冬に向かって保存しておくのだそうで、これを「モズのはやにえ」と言います。モズは肉食で、獲物は昆虫やトカゲ、蛙、ミミズ、小鳥、ネズミまで多様な小動物が含まれ、これらが冬の間食べられるための「貯食」と言われているのです。

 中には食べ残して干からびてしまうものもあるそうですが、野鳥は野鳥なりに、厳しい冬を乗り切って生きるための知恵と術を、本能的に持っていることを考えると、モズの命も、それを支える昆虫や小動物の命も、愛おしく尊いものに思われます。

 こうした自然界の事象に触れて何より強く感じるのは、折々の風景の変化を目にしたり、自然の豊かさを享受することの出来る、この日本の四季の移ろいが、日本人の古来からの精神文化を創りあげてきた大きな要因であろうということです。今更ながら、明確な四季のある日本の自然が有り難く思えます。

 折も折、先日の新聞の読者欄に、心温まる一文が載っていたので紹介します。三重県の日高愛美さん(12歳)という小学生の投稿で『モズさんごめんね、もうしません』という題で、以下原文のままです。

 『ある朝、玄関の横の植木鉢の枝に、変なものが引っ掛かっていました。よく見ると、頭を枝に串刺しにされたトカゲの死体です。こんなイタズラは近所のJ君に違いない。お返しに家の前に置いてやろうか、と思いましたが、お父さんが捨ててしまいました。翌日、お母さんが新聞記事を見て言いました。あれはモズの仕業じゃない? 「はやにえ」という冬に備える保存食だそうです。ネットで検索したら、はやにえの写真がたくさん出てきました。うちのと似て、気持ち悪いです。ですが、せっかく冬を越すためにと一生懸命エサをとり、枝に引っかけたのです。知らなかったとはいえ、捨ててしまってごめんなさい。今度はちゃんと残しておくので、また来てくださいね。そしてJ君、疑ってゴメンね』

 愛美さんの素直で優しく、柔軟な心に触れて、こちらもホッコリと温かな気持ちにさせられました。今、大人の世界では、隠蔽、改竄、廃棄、嘘、ごまかし、はぐらかし等々、気の晴れないことばかり続きますが、新しい年に向かって、改めて愛美さんのような、優しく素直で温かい心に学び直したいものです。

 12月8日はお釈迦様がお悟りを得た日……そのお悟りとは「自然界のすべての命の一つ一つが、絶対無二の尊いものである」ということでした。深く思いを致したいと思います。


2019.11.02
裏を見せ 表を見せて 散るもみじ



 『裏を見せ 表を見せて 散るもみじ』

 日本でもっとも人気のある禅宗のお坊さんと言えば、良寛さんと一休さん。その良寛さんの「辞世」と言われているのがこの句です。

 良寛さんは、とても多くの人々に親しまれたお坊さんでした。特に子供を愛し、「子供の純真な心こそが真の仏の心」といって子供達と一緒に遊び、戒律の厳しい禅宗の僧侶でありながら酒を好み、村人と頻繁に杯を交わされたそうです。良寛さんは、老若男女や貧富などによって人を分け隔てすることなく、誰とでも親しく温かい気持ちで触れ合われたので、その人柄に接した人は皆、穏やかに和んだと言われています。

 良寛さんが晩年、和歌のやりとりを通じ心温まる交流を続けられた、心の恋人とも言われた弟子の「貞心尼」が、高齢となり死期の迫ってきた良寛さんのもとに駆けつけると、良寛さんは辛い体を起こされ、貞心尼の手を取り「いついつと まちにし人は きたりけり いまはあいみて 何か思わん」と詠まれました。そして最後に貞心尼の耳元で、「裏を見せ 表を見せて ちるもみじ」とつぶやかれお亡くなりになったそうです。

 この句には、「あなたには自分の悪い面も良い面もすべてさらけ出しました。その上であなたは私のすべてを受け止めてくれました。そんなあなたに看取られながら旅立つことが出来て幸せです」という貞心尼に対する深い愛情と感謝の念が込められているように思います。

 そしてこの句は、晩秋から冬にかけての寂しげな風情を、人生になぞらえており、単なる俳句と言うよりも、むしろ日本人が大切にしてきた死生観が見て取れて、人間の生きる姿を句に託したものとして味わうべきと思います。

 「人間は棺に入ってはじめて価値が定まる」などと言います。つまり、いよいよ死ぬ時を迎えると、これまで行ってきたことの洗いざらいが見えてきて、その人がどのくらいの人であったか解るというわけです。

 良寛さんの言葉を借りれば、「仏様は何でもかんでもお見通し、いつでもどこでも見てござる。だからこそ裏表のない人生を生きてゆこう。良いも悪いもすべてさらけ出して、仏様にすべてをお預けして安心して生きてゆこう。この生き方こそが、何も怖れることのない、心安らかな世界なのだ」と言うことでしょう。

そのことに気づかせてくれるのが『裏を見せ 表を見せて 散るもみじ』……よ~く味わいたいものです。

 


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