2019.10.01
実りの秋を健康に
秋の爽やかな空の下、全国各地で運動会や健康に関する行事が、盛んのようです。テレビをつければ、陸上競技や、ラグビー、サッカー、ゴルフ、野球等々、国内外の大きな大会が頻繁に中継され、元来スポーツ好きの私は、我を忘れて見入ってしまいます。
ただ残念なことに、加齢とともに自分でスポーツに興じることは、めっきり少なくなりました。せめて健康維持のための軽運動くらいはしなければと思いつつ、若い頃は想像だにしなかった、巨大な中華まんじゅうの如きふくれた腹をさすりながら、ため息をつくばかりです。
実は仏教でも、健康や身体について、様々に示してくれています。あるお経の中に次のような文言があります。
『見よ、飾られたその骸(しかばね)を。それは苦痛の集まり。地・水・火・風の四元素によって仮に造り成されたもので、病多く、人はしばしば、それを愛すべきものと考えてはいるが、実は堅固さも安定もない。この肉体は、老い朽ちるもの。病の巣窟(すみか)にして壊れやすい。腐敗した身は破れ、生は必ず死に終わるのだ。美しく飾られた王の車も朽ちるように、身体もまた老いに至る。されど、よき人の法は、老いに至ることはない。』
どうも私たちの肉体それ自体は、仏教では、汚れた感心できるものではないと言っているようです。要は、自然に自分自身の老いを受け入れ、心には法を携えることが、健康につながると言っているのです。
ここに言う「法」は、すべての物や事象は移りゆくという「諸行無常」の理が、大きな前提になっているものです。しかし、実践においては、各人の各人による自由な健康法があって然るべきもの、と察せられます。
大きく深呼吸をすると、秋の清々しい空気が胸にしみ、身体を駆け抜けるような気すらします。表へ出て、あまり身体をいじめ過ぎるでもなく、甘やかすでもない、ほどほどの運動をしてみてはいかがでしょう。その「ほどほど」というのも、実は仏教の心です。もっともこんな戯れ歌もありますが……
『ほどほどが 良いぞと人は 言うけれど そのほどほどの ほどがわからず』……せっかくの実りの秋、収穫を喜び感謝しつつ、のんびり行き(生き)ましょう!!
2019.09.01
月と兎
酷暑続きの夏が過ぎて、朝夕の冷気が心地よく、秋の虫の声も賑やかに聞こえてきます。この季節は、天空に煌々と輝く満月の凛とした美しさが特に印象的です。古来より「お天道様」「お星様」「お月様」などと、天体に「御」と「様」の敬称を付けて言い習わしてきたのは、恐らく世界中で日本民族だけでしょう。これは、天体に対する畏敬の念に、俳句や短歌に代表される、日本民族特有の詩心が重なり合ったものと思われます。
ところで、お月様に兎がいるという話は、日本人なら誰でも聞かされてきたことですが、この話が仏教の説話の中にあるということはご存知でしょうか。この伝説は、もともとはインドの「ジャータカ」という仏教説話に見られ、日本に渡来して『今昔物語』などに収録されて語られてきたのです。その内容は次のようなものです。
昔、猿、狐、兎の三匹が、山の中で力尽きて倒れているみすぼらしい老人に出会った。三匹は老人を助けようと考えた。猿は山から果物や木の実を集め、狐は川から魚を捕り、それぞれ老人に食べさせた。しかし兎だけは、木にも登れず、川にも入れず、どんなに苦労しても何も採ってくることが出来なかった。自分の非力さを嘆いた兎は、何とか老人を助けたいと考えた挙げ句、猿と狐に頼んで火を焚いてもらい、自らの身を食料として捧げるべく、火の中に飛び込んだ。その姿を見た老人は、帝釈天としての正体を現し、兎の捨て身の慈悲行を後世まで伝えるため、兎を月へと昇らせた。月に見える兎の姿の周囲に煙状の影が見えるのは、兎が自らの身を焼いた際の煙だという。
慈悲行についてのお話しをもう一つ……。
山形県高畠町出身の童話作家、浜田廣介の作品の中に、『泣いた赤鬼』という有名な童話があります。お話の筋を要約すると……
赤鬼が村人達と仲良くなりたくて、自分の家に招くのですが、村人は警戒心を解きません。友達の青鬼が、「なにか一つの めぼしいことを やりとげるには きっと どこかで いたいおもいか そんを しなくちゃ ならないさ」と言って、人里でわざと大暴れし、赤鬼にきつくいさめられ叱られることで、赤鬼が人々に受け入れられるように図ってやったのです。そして赤鬼の友だと悟られないように姿を消しました。
友を思いやるが故に、その友との関係を絶つというところが悲しいのですが、この話も、自分の身を捨てて他に尽くす慈悲行の尊さを教えるものと言って良いでしょう。爽やかな秋彼岸のこの季節、月を眺めながら、子供達にこんな話をしてあげたらいかがでしょうか。
2019.08.01
命の源
一ヶ月ほど前、新聞の読者投稿欄に、とても印象的な文章が載っていたので紹介します。投稿の主は、中学2年の女生徒で、要約すると次のような内容でした。
『私はお父さんのことがきらいできらいで仕方ありません。小さい頃はそんなこともなかったのですが、この頃のお父さんは若い頃より体型もずいぶん変わって醜くなり、加齢臭もあってなんだか不潔だし、週末に家にいる時などは、何をするでもなく、テレビを観ながらゴロゴロしているだけで、会話らしい会話もなく、ただうっとうしいだけです。』
思春期の少女によくありがちな思いのようです。そこでこの女生徒はお母さんに尋ねます。『ねぇお母さん、お母さんはどうしてあんな人と結婚したの?』するとお母さんは答えたそうです。『それはね、あなたという娘に会うためだったの』
『お母さんの答えを聞いてから、お父さんへの私の思いが少しづつ変わって、いまでは子供の頃のように、仲良くじゃれ合うまでになりました。』と結んでいました。
何と素敵なお母さんでしょうか。何と知的で機知に富んだ素晴らしい言葉でしょうか。このお母さんのもとで成長していく娘さんは、将来このお母さんのような、知的で素敵な大人の女性になるに違いありません。思うにこの母親は、愛する娘に【命の源】について、実に的確な言葉で教えてくれたのです。
【命の源】と言えば、最近マスコミ等から「墓じまい」という言葉が頻繁に聞こえてきます。
我が寺で先日Aさん(83歳)の葬儀がありました。Aさんは十年ほど前に奥さんを亡くし、それ以来一人暮らしの身でした。一人娘がいるのですが、関東の方に嫁いでおり、夫と医学生の一人息子と所帯を構えています。当然A家の墓を管理することは難しく、何よりもA家は絶家となって、いずれ「墓じまい」をすることになるのでしょう。そこで私は、葬儀後の法話の中で、若い医学生の息子(Aさんの孫)に、次のようなことをお話ししました。
『確かにA家は絶家となって、この土地から消えてしまうけれど、あなたの母親が生まれ育ったところは、とりもなおさずこのA家であり、祖父母、曾祖父母、更に遡れば恐らく何十、何百、何千というあなたの祖先が息づいて暮らしていたことはまぎれもない事実です。その祖先達の血の繋がりこそが、あなたの命の源であり、それを形として象徴しているのが、A家の墓なのです。その墓に眠っている無数と言ってよい祖先の中の一人でも欠けていたら、あなたの存在はなかったのです。あなたの命の源は、この土地と、A家と、その墓の中にあるのだということを、決して忘れないでください。』
祖先との絆を確かめ合うお盆の季節こそ、それぞれの【命の源】を思い起こす良い機会です。
2019.07.01
袖擦れ合うも……
落語好きの私が、毎週殆ど欠かさず観ている日曜夕方の寄席番組で司会を務める人気噺家が、還暦を目前に結婚するというので話題になりました。彼は仲間の噺家達から「永遠の独身者」などと冷やかされイジラれながらも、落語芸術協会の会長に推されるなど、人気と実力を兼ね備え、周囲の人たちからの信頼も厚く、私も好きな噺家の一人です。いささか遅きに失した感の縁組みのようですが、他人事ながら嬉しく、ほほえましく思ったことでした。
ところで、例えば若いカップルに、「どこで巡り会ったの?」と訊ねると、「ええ偶然旅先で」とか「偶然同じ電車に乗り合わせて」などと『偶然』をよく耳にします。
本当に二人の出会いは偶然なのでしょうか。もし一分でも前か後の電車に乗っていたら、その偶然は起こらなかったわけです。
昔の人が言っています。『袖擦れ合うも他生の縁』……つまり町を歩いていて、ふとすれ違ったあの人、この人。こんな一瞬の出会いさえも、前世からの縁あってのことだというのです。前世からの縁あってこそ、この世(現世)で出会うことが出来たのだと……。
それだからこそ、出会った人、結ばれた人、身の回りの人々を大切にしなさい、との意味が込められているのは言うまでもありません。
出会いというのは偶然ではないのです。これは仏教の考え方なのです。
前世などというものは、あるわけがないとお思いでしょう。いいえ、前世はあるのです。今私たちがこの世(現世)に生を受けるに当たっては、両親二人、そのまた前の両親四人、さらにそのまた前の両親八人、つまり多くの、というより数え切れないほどのおびただしい人々(ご先祖)があって初めて可能なのです。このことを仏教では前世というのです。自分の命の源である、無数と言ってよいご先祖の繋がりが、偶然であるわけがありません。逆に私たちがこの世を去ったとしても、私たちに関わる人々は、確実に生き続けます。それは私たちの未来世です。
地球上には数十億の人々が息づいています。私たちは日々の生活の中で、その数十億の中の、何人と出会うことが出来るでしょうか。ある統計によると、一人のお葬式に集まる人々の数は、平均二百人だそうです。(もっとも最近は、家族葬という少人数の葬儀が増えてきて、そうとばかりも言えないようですが……)
つまり、私たちが生涯に出会う人々の数は、数十億の中のわずか二百人程度だということなのです。こう考えると、やはり出会いは他生の縁、縁あってこその出会いです。縁ある出会いがあってこそ、人生に様々な彩りが添えられると言えましょう。だからこそ「出会いは命」とも言うのです。巡り会いの不思議に手を合わせながら、仲良く暮らしたいものです。
2019.06.03
初夏に思う……
境内の周囲の青葉若葉が耀いて目にしみます。ひっきりなしに聞こえてくる野鳥のさえずりが心を和ませてくれます。夜になって外に出ると、木々の涼しげなざわめきが、軟らかな風に乗って心地よく聞こえてきます。浴室の窓を開けて、湯船に首まで浸かり耳を澄ますと、遠近の田んぼで蛙の合唱が賑やかです。山里の暮らしでしか味わうことの出来ない豊かさと、幸福感と、楽しさを満喫できるこの季節が、私は大好きです。
昨年の春、境内の中庭に、新緑の季節にふさわしい蓮の花を咲かせてみたいと思い立ち、京都の園芸屋さんから、小さく芽吹いた根付きの蓮と、土、肥料、一抱えもある重くて大きな水盤をセットで買って、大汗をかいて植えたところ、夏になって見事な花を見せてくれました。
ある日、その花の下の葉に隠れるように、体長が5㎝にも満たない雨蛙が住みつき、その体の大きさには不釣り合いなほどの大きな声でしきりに鳴いていました。妻と苦笑しながら、新しいペットを飼ったような不思議な癒し感と和やかな感情を抱いたものでした。
昨冬、根分けをし、この春植え直しをして、今夏も楽しもうと思ったのですが、長年腰痛に悩まされている老躯にとっては、かなりの重労働で、残念ながら断念してしまいました。
ところであなたは蓮の花の咲いている風景をご覧になったことがありますか。蓮は夏の朝早く花を開きます。真っ白な花、薄紅色の花、どれをとってもそれはそれは見事です。蓮の花は何故あれほど美しいのでしょう。そして何故尊ばれ、仏様と深く結びついているのでしょうか。それは汚い泥の中で成長し、それでいてその泥に染まることなく、清浄な花を咲かせることに他なりません。
お釈迦様は、蓮の花について次のように謳っておられます。
都大路に捨てられし/塵芥(ちりあくた)の堆(つみ)の中にも/げに香りたく/心楽しき/白蓮は生ぜん
きれいな水の中からきれいな花が咲くのであれば、それは当たり前のことであるけれど、汚れと悪臭にまみれたゴミ(それこそこの娑婆世界と言ってよいでしょう)の中にあって、むしろそれらを養分として育ち、気高い花を咲かせる蓮の花の尊さを、お釈迦様は讃えておられるのです。「泥中の蓮」という言葉がありますが、まさしく蓮は泥中にあって尊しなのです。
そのことこそが私たちに対する教えであり、悪に染まらず、悪い誘惑に負けず、どれほど不遇で恵まれぬ環境にあっても、強く清らかに堂々と生き抜こうという呼びかけなのです。
お近くに蓮池があれば、夏の朝、機会を見つけて出かけてみてはいかがでしょう。次々に花開く蓮池の風景はまさしく極楽浄土を思わせてくれるでしょう。